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55年前のヨット単独航海「太平洋横断ひとりぼっち」#1

 1964年の東京オリンピック前に海外旅行ができるのは、相当な社会的エリートであった。オリンピックの2年前に、小さなヨットで太平洋を渡ってアメリカに行こうと考えるのは、相当に破天荒なしわざである。

 当時、ヨットによる出国は認められておらず、堀江氏はパスポートもビザも持たずにいわば“密出国”の形で船出をした。このため、日本の領海からの脱出に際して、そしてアメリカ到着が近づくとしきりに心配しているが、アメリカ人はまことにあっけらかんとしており、この勇敢な冒険家をあたたかく迎え入れている。いかにも移民国家のアメリカらしい。

 このエキサイティングな手記は読者からの支持を集め、1962年の「文藝春秋読者賞」にも選ばれた。

 文中、ヤマ括弧〈〉で囲まれている部分は、航海日誌そのままの原文である。

出典:「文藝春秋」1962年11月号

オフクロがポロリと涙

5月12日(土)=第1日

 朝から雨。今夜の出発は、どうかと気づかわせた。が、次第に天候は回復したので、予定どおり、出ることにした。

 午後8時45分、ムアリング・ロープ(もやい綱)をはずす。飛び出したとおもったら、無風状態に入る。その後、西宮灯台を通過するまでに、1時間20分を要した。〉

堀江氏は出発時23歳だった ©文藝春秋

 家を出るとき、オフクロが横をむいて、ポロリと涙を落とした。気がつかなかったことにする。

「120日までは心配いらへんで。9月いっぱいは、黙って辛抱してや」

 といいわたす。

 2時すぎ、最後の荷物を持って家を出る。店(堀江商会。自動車修理工場)のもんに、

「ちょっと、西宮まで送ってんか」

 車を出してもらった。なにも知らせてないから、ノンキなことをしゃべりながら、運転してくれる。

 きょう決行ときめたのは、きのうだった。もうジリジリしていたのだ。ほんとなら、4月そうそうには出たかった。いろんなことがあって、半月近く延びている。ウカウカしていると、天候が悪くなる。来年まで延期になったりしては大変だ。

 ボットム(船底)の防虫塗料だけは、塗っておきたかった。ベイン・ラダー(風向によって、自動的に角度をとる舵)も、とりつけていきたかった。でも、ぜいたくはいえない。

 先輩や知人、友だちには、4月になってから、ひとわたり会ってある。もちろん、さりげなくだ。ひょっとしたら、今生の別れ。そんなつもりではない。しばらく顔を見られないからという気持だ。

 積み荷を終ったころ、奥井さんと竹内さん(ともに関西大学ヨット部OB。共有艇「サザン・クロス」の兄貴分)がきてくれた。阪神の西宮駅前で、ご馳走になる。焼飯を食べた。実はスシがほしかった。しかし、ナマモノで腹をこわしては損だ。我慢する。

 ハーバーにひきかえして、“お父ちゃん”(「サザン・クロス」号のこと)のおなかにもやってあった「マーメイド」をはなしてもらう。2人は陸に帰る。ゆっくりとセール(帆)を張った。

 竹内さんの車のヘッド・ライトが、こっちを照らしている。奥井さんが写真をとった。

 さア、いこう。しかし、風がない。「マーメイド」は“お父ちゃん”から離れようとしない。「サザン・クロス」に乗って、突き離した。カッコ悪いったらない。

 1センチも進まない。エンジンのない悲しさだ。イヤになってしまう。しようがないから口笛で「ビヨンド・ザ・リーフ」を吹いた。

 ヘッド・ライトが消えた。いつまでもつけていたら、バッテリーがあがるからな、と考える。2人はまだ見送ってくれているのか、帰っていったのか。暗いのでわからない。ぼくがこんなところでアグラをかいているんじゃあ、送るほうだって気がぬけるだろう。早く帰ってくれるといい。

 スクラップ船の足舟【あしぶね】(船の繋留地点まで乗員を運ぶポート)が、うしろを通る。そのおこぼれ波を頂戴して、ノロノロ進んだ。泳ぐより遅い。太平洋どころではない。しょっ鼻からこれではと、ジリジリする。

 さまざまの荷物のほかに、所持金が日本円で2000円。沿岸でつかまったときの用意だ。これだけあれば、家へ電報も打てるし、帰りの旅費にもなるだろう。

 安全圏に離脱するまでは、日誌にアメリカの「ア」の字も書かない決心をきめた。これも、ふんづかまったときのためである。へたに威勢のいいことなど記入してあったら、犯意とかの証明になる。すべてアッサリいくに限る。

 しかし、できれば堂々と出発したかった。5年間というもの、あらゆる手は打った。アルバイト運転手になって、トラベル・サービスに勤めたのも、合法的な出国手続をさがすためだった。が、やっとつかめたのは、八方ふさがりだという一事。

 いつまで経っても、西宮灯台の「ワン……ツー……スリー……青!」(4秒ごとの青光)が、視界から去らない。

だれとも会いたくなかった

5月14日(月)=第3日

 午前5時ごろ起きる。北から順風が吹いているではないか。それ、いけッ。セール(帆)を上げ、アンカー(いかり)もとりこむ。

 午前11時、友ケ島水道を通過。そのあと風が弱まる。

 午後3時30分、風Sに定まり、風力3ぐらい。ボート・タック・クローズ・ホールド(右舷に帆を出して、風上へ斜めに登る走法)で、セルフ・ステアリング(自動操舵)にセット。

 雨が降りはじめた。

 雨もりが、キャビンのまん中あたりに1カ所。ポタリ、ポタリ。たいしたことはないが、気になる。

 それにしても、西宮―友ケ島間を38時間。時速1ノットも出なかったとは、ちょっと情ない。

 あまりの強風に、マストが折れるかと心配だ。が、ここで折れるのなら、なんとか逃げられるだろう。トライスルは使わないことにする。

 ストーム・ジム(荒天用の前帆)にし、メンスル(メイン・セール。主帆)をリーフ(縮帆)しているのに、ヒール(傾き)は30度以上をマークしていた。波が高く、船体にぶちあたる。波音は、外板をバラバラにするかとおもわれた。

 それにアカもり(浸水)がひどい。コックピット(操舵席)の上で大波がくだけ、人間もろとも、海のなかへ引っぱりこまれそうだ。

 船酔いのひどさは、お話にならない。吐くものがなくなり、ついに胃液に血がまじる。先輩の奥井さんをおもいだす。〉

©iStock.com

 人目をさけてセーリングをつづける。紀伊半島の先端にある田辺がこわい。田辺保安部は行動力も強いし、可動半径が広い。ここでカンづかれては運のつきだ。

 一般船舶の報告というのも、警戒しなくてはいけない。オセッカイな船長が、保安庁へ連絡するかもしれない。だれとも会いたくなかった。

 時計は日本時間で押し通すことにする。持っている天測略暦が日本時間だからだ。世界時間を使うと、ややこしくなる。

 クォーター・バース(キャビン内の両舷にある板敷。寝台【ねだい】に使う)は、まだ片づいていない。疲れたので、ゴチャゴチャの上に寝る。嵐のため、ローリングが目まぐるしい。ぼく自身がオモリのひとつだから、そのたんびにスターボード(右舷)に寝たり、ポート(左舷)にひっこしたり……。ヒールを避けたくなると、針路に直角に寝たりした。

 スリーピング・バッグ(寝袋)の使いかたも工夫する。チャックをしめて、中にもぐっていたのでは、イザというときに飛び起きられない。毛布を敷ぶとんにし、チャックを開いたシュラーフ(スリーピング・バッグ)を掛ぶとんに使う。すそのほうは筒になっているので、足を突っこむ。こうすれば、爪先が冷えない。足には、木綿の紺足袋をはきっぱなしにする。ゴム草履によく合う。

 枕はライフ・ジャケットである。積載量にかぎりのあるヨットでは、ひとつの品をいくつもの目的に使わなくては、もったいない。

 肩のすぐ上に、コンパス(羅針盤)をおく。寝ていても、ちょっと首をまわせば、方角がのぞける。

 ヨットは進まなかった。まるで、かせぎが少ない。借金がたまっていく感じだ。

 アカがジャンスカ入る。簀板【すいた】をはずして、バケツでくみ出す。外へこぼそうとしたら、手もとが狂って、キャビンにぶちまけた。ゆれがひどい。

 夜、またアカくみでヘマをやった。スライディング・ハッチ(キャビンの天蓋)のニスに、ランタンの灯が写っている。それを空と錯覚して、バケツをぶちまけた。頭からザンブリとかぶる。